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楽園カフェ(店舗併用住宅)

田無の家

甘味処シュガー(当時:楽園カフェ)を設計、施工させて頂きました。
独立して最初の仕事なので、特に思い入れのある仕事です。

プロローグ

淡路島での大工の修行も5年目に入っていた。年季明けといって、職人の場合、4年間が信じられないくらい安い給料で、5年目からはやっと、一人前とみなされる。しかし、震災バブルが終わった不景気の波で、5年目とはいえ、やっと大学の初任給くらいの給料でしかなかった。少しがっかりはしたが、なによりも耐え難かったのは嫌いな熟練大工とペアで現場をさせられていたことだった。その大工は社長である親方の同い年で、ヨイショが上手く、仕事ができない人の処世術の匠であった。

長い職人の歴史の中で、ある時期を堺に職人のレベルが極端に下がる。戦後のある時期、「勉強ができない。勉強が嫌いだ。」という理由で職人になったからである。現在の職人のネガティブなイメージは、歴史的には短いものだ。

僕がペアにさせられていた大工は、まさにイメージを悪くする典型であった。会話のレベルが低すぎて合わせるのに虚しくなるし、なによりも仕事のミスを被るのにも疲れた。本来、大工はある程度の計算能力があり、頭の中で立体視ができないと仕事にならない。この最低限の適性がないという人でも、処世術が長けていれば、一人前に務まる会社の体質にもうんざりしていた。

ある日、三田市に残っていた大学の親友に電話をした。何年ぶりかの電話だった。その電話で、「もう辞めようかと思う」と言うと、「ちょうど三田でカフェをやりたいという人がいて、佐藤くん、どうかな?って思っていたところなんだ」という。

僕の人生はこういうことがよくある。楽園カフェの話はここからスタートする。

プランニングの経緯と意図

予算はなかった。そのかわり、僕のイメージを優先させてもらうことにした。やりたい仕事をさせてもらえるなら、僕の給料はいらない。周りには、まだ大学院生もチラチラしていたし、淡路での修行中のフラストレーションが最大になっていたのもある。



淡路では和風の家ばっかりだったが、ここでそれをする気はなかった。施主の要望にも全く合わなかった。 しかし、「技術」や「工法」や「素材」は伝統的なものを使い、モダンな感覚を表現しようと思った。施主さんがパラオに縁があり、名前も「楽園カフェ」ということに決まっていたので、南国リゾートのようなイメージも表現したかった。「古典的な日本語で話しているのに、内容はグローバル」のようなところを狙った。


工法のこだわり

木造の工法的には、既にプレカットが主流になりつつあった。プレカットとは「構造材をコンピューター制御された機械で加工する」というものだが、淡路では稀でも、三田ではもはや主流であった。 しかし、出来ることに制約が多かったし、なによりも淡路で覚えた技術を使いたかった。



「プレカットではなく、手刻みで加工しよう。」プレカットでは出来ない加工を、意図的に計画した。淡路の工務店では採用されなかった勾配梁のCADによる墨出しも取り入れた。勾配に傾けた自然丸太どうしを組んでいく木組みにもこだわった。(しかし、それらはマニアックすぎて、大工の中でもごく一部の人しか、正しく評価してもらえなかった)



材木が届く

考えてみると、弟子の頃は天井クレーンの付いた、巨大な倉庫でヌクヌクと刻んでこれた。作業場がなければ何もできないことに気がついた。計画の初期の頃、頭の中は大工小屋のことでいっぱいだった。

ところが、偶然は重なる。たまたま、後輩の知り合いで、破産した工務店の競売物件を落札した方がいて、その方の好意で電気代程度の家賃で、この倉庫を貸してくれることになった。サイズ、設備ともに淡路の頃とは格段に見劣りするが、とりあえず簡単な天井クレーンもついていた。現場からも車で10分のところだった。


材木は20tトラック1台で、宮崎から直送された。運良く借りることができた倉庫は、これだけの大きなトラックは入らない。近所の運送屋さんにピストン輸送してもらった。



伝統的な木組みを活かす

刻みには2ヶ月半かかった。
通常この大きさであれば、2週間もあれば刻める。しかし、僕のプランでは部材の接合方法を、より強固なものにする必要があった。5寸角の柱と杉の自然丸太を金物を使わずに接合していく昔の工法を再現した。また、構造材のほとんどが、中からも外からも化粧材として露出するので、表面の仕上げにも時間がかかった。



上棟

現場は平家の落人伝説の残る、標高500mの山頂にある集落の片隅だ。
材料が届いたのが9月の終わり。上棟までの準備が出来たのが12月中旬だった。
棟上げは、近所で知り合った大工と、淡路の時に知り合った年の近い大工に手伝ってもらった。
また、呼んだ訳ではないが、暇と興味が有り余る近所のおっちゃん達も手伝いに来た。

屋根仕舞

上棟は無事に済んだ。再び一人作業になった。次は「屋根仕舞い」といって瓦を支える下地を作っていく作業をする。瓦を葺く前に、二次防水として「ルーフィング」というシート状の防水材貼るのだが、それをすれば屋根としての機能は満たされる。

ところが、途中で大雪に降られた。しかも、日中の最高気温が上がらないため、積もった雪がなかなか溶けてくれない。屋根勾配はとても急で、かんたんな屋根足場をしているものの片手は足場を掴んでいないと屋根におれない。左手で足場を握り、右手にスコップでシャーベット状になった雪を砕いて板を貼った。ルーフィングは下で長さにカットして、どうにかして一人で貼れた。霜が降りたルーフィングが氷のようにツルツルになり、どうあがいても足が滑る恐怖を思い出す。

高地の冬の仕事に苦戦する

冬の高地ならではの仕事のやりにくさは大きかった。平地では雪が降っていないのに、現場に着くと雪が降っていることが多々あった。そもそも、雪で現場までたどり着けないこともあった。また、日本海の「しぐれ」のように、日が差したと思ったら、シャーベットのような雪が降ってくる。

屋根が終わっても、壁から雪が入ってきた。通常のアルミサッシの場所は問題なかったが、一部、木製建具とはめ殺しのガラスのファサードに計画したため、現場の最後まで冷たい風が通り抜けた。朝現場に行くと、まず床に積もった雪をホウキで集めて掃除をしていた。杉の床材は全く濡れていなかった。

自分で選んだデザインでなければ、途中で心が折れていたと思う。近所に家がなかったので、毎日、夜遅くまで働いた。帰ろうと思って車のドアを開けようとしても、凍ったドアがなかなか開かなかった。

外部仕舞いと内装

外部の杉板を貼りや漆喰の下地を作り、それから内装に移った。
ドアや窓枠も、一切、既製品を使わなかったので、とても時間がかかった。
いつの間にか1月から3月になっていた。4月になると、寒くて手が痺れてくるような日は減ってきた。

完成間近

5月になると完成が見えてきた。
外部の足場も外れ、外観もイメージ通りのものが出来上がった。苦しい時間が続いたが、5月になってようやく幸福感が生まれた。



予算も限られていたし、人脈もなかった。初めての仕事が、精神的には最も過酷だった。それ以降にも、過酷な現場は多々あるが、あの時の苦しみや孤独感を思ったら忍耐出来るレベルだ。しかし、完成した時の喜びもハンパなかった。施主さんも感動してくれた。

エピローグ

こうして楽園カフェが完成した。

2Fは住居になっていて施主さんと子供が近くの小学校に通う家としても機能した。とても田舎で、しかも人里離れた高地にあるので、夏の避暑地には最適だ。しかし、シーズンオフには集客は見込めない。残念ながら「楽園カフェ」は数年前、別の方に売却された。

いまは「甘味処シュガー」という名前でカフェが続いている。



僕が最高責任者として最初に設計、施工したこの建物は、しかし、なかなか評価してもらえなかった。「ログハウス」と区別のつかない人もいて、がっかりした。努力した割には、マニアック過ぎたという反省が残った。ただ、僕が尊敬している庭師は、この建物を見て僕の存在を認めてくれたし、何故か外国人に評価が高く、売却が決まった時、何人かの方が相談に来られた。世界を知っている目の超えた人には理解できる感性なのでは、と自画自賛するしかない。

10年前の完成時には、木の一本も生えていなかった敷地は、今では色々な植物が植わり、育ってきた。
庭が成長した時に、ようやく最初にイメージにたどり着いたが、そこには10年という時間がかかっている。

ラインナップ

ハンドワークス:佐藤 俊秀 デザイン/建築設計/施工
庭師松下:松下 浩崇 造園設計/施工
木童 構造材、下地材、床板の材料供給
近藤鉄工房:近藤 明 階段の手すり